最近読み始めた「深夜特急」という小説が面白い。
深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)
海外一人旅をしたことある人は胸をくすぐられる内容であり、文体も心地良い。何より、筆者の海外一人旅に対する心持ちが自分と重なる部分があり、のめり込めた。マカオのカジノで親しまれる「大小」と呼ばれるサイコロの目の大小を当てるゲームで何とか負け分を取り戻した翌日の筆者の気持ちなどは格別。
----以下、引用部分---
再び、ホテルの部屋で覚えた荒々しい感情が甦ってきた。
私は大小に心を残しながら、自分を上手になだめてマカオから去ろうとしている。冷静に判断すれば、カジノを相手に勝ち越せるわけがないといえる。1000ドルや2000ドルの金など、負けはじめればまたたく間になくなってしまうだろう。やめて帰ろうという判断は確かに賢明だ。しかし、その賢明さにいったいどんな意味があるというのだろう。大敗すれば金がなくなる。金がなくなれば旅を続けられなくなる。だが、それなら旅をやめればいいのではないか? 私が望んだのは賢明な旅ではなかったはずだ。むしろ、中途半端な賢明さから脱して、徹底した酔狂の側に身をゆだねようとしたはずなのだ。ところが、博奕という酔狂に手を出しながら、中途半端のまま賢明にもやめてしまおうとしている。賽は死、というのに、死は疎か、金を失う危険すらもおかさず、分かったような顔をして帰ろうとしている。どうして行くところまでいかないのか。博才の有無などどうでもよいことだ。心が騒ぐのなら、それが鎮まるまでやりつづければいい。賢明さなど犬に喰わせろ。張って、張って、張りまくり、一文無しになったら、その時は日本に帰ればいい。デリーにすら行けず引き返してきたというのはいささか恥ずかしいが、それもひとつの旅だったのだ……。
激しい感情に突き動かされるままに、私は自問自答を重ねた。その問いと答が指し示す方向はカジノ以外のどこでもなかった。私は、自分がこれほどまでに博奕に未練を残していたということに、むしろ驚いていた。もちろん、博奕への未練だけが、私を突き動かしている感情のすべてではなかった。恐らく、私は、小さな仮の戦場の中に身をゆだねることで、危険が放射する光を浴び、自分の背丈がどれほどのものか確認してみたかったのだと思う。
<やろう、とことん、飽きるか、金がなくなるまで……>
足は聖パウロ学院教会に近い船上カジノへと向かっていた。
---引用終了---
ここらへんの描写はたまりません。自分が1ヶ月以上アメリカを一人旅していた時もこの時の筆者に近い感覚を幾度も覚えました。「俺は旅行をしにきているんじゃない、旅をしにきているんだ。観光名所を巡って写真を撮るのは旅行であって、旅じゃない。旅にはもっと生々しくて、偶然に支配された楽しみ方がある。」とか思って色々ムチャしたなぁ、、、(遠い目)。
また、旅に行こう。
*本文に
---引用部分---
THE DIE is CAST (賽は投げられた)
だが、この文章をじっと見つめていると、投げられたのが賽ではなく、死であったかのように思えてくる。いや、賽を投げるとは、結局は死を投ずることだと言われているような気がしてくる。DICEはDIE、賽は死と……
---引用終了---
という部分がある。
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